2009年08月18日

映画『火垂るの墓』しっかりと観ました<改>

<始めに>
これは、私が三年前(2006年8月6日)に書いた記事「映画『火垂るの墓』しっかりと観ました」を、自分なりに、誤解の無いように再度(2009年8月18日)、訂正、加筆したものです。
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毎年8月の『終戦記念日』の頃に、映画『火垂るの墓』がテレビで放映されます。

先日、民報テレビで放映されていたのを、DVDデッキに録画できました。
で、今日ゆっくりと観ることができました。

見終わった後で、とても重たく辛い気持が心に残りました。

ここからは『火垂るの墓』についての、私のごく私的な感想を述べます。

映画『火垂るの墓』』がお好きな方には、決して耳障りの良いものではないと思います。

そういった次第ですので、この先は<<続きを読む>>に書くように致します。
ですから、くれぐれも映画『火垂るの墓』がお好きな方は、どうぞここから先は読まないでくださいませ。

もしも読んでしまわれて、不愉快な気持になられたとしても、自己の責任において、対処して下さいませ。
私は関知いたしません。


<<続きを読む>>


映画『火垂るの墓』に込めた高畑勲さんのメッセージはどういったものだったのでしょう?

幼い兄妹のあまりに痛ましい死?
戦争の惨状?
「二度と戦争などといったことが無いように」といった祈り?
あるいは、そういったこと、全て?

一生懸命に観たつもりでした。
胸が何度も痛みました。

「節子ちゃんは本当に可愛そうだな・・・」
「清太君は、幼い妹、節子ちゃんと懸命に、必死に生きようとしたけど、節子ちゃんを喪い、清太君自身も結局死んでしまったんだな・・・」
そんなやり切れない感慨が残りました。

そうした、映画『火垂るの墓』の物語の内容とは、全く別に、私には気になってしまうことがありました。

映画『火垂るの墓』を放映する前の番組宣伝なんです。

「今宵は『反戦映画』の名作『火垂るの墓』を、ご家族で、ごゆっくりご覧下さい」

といった内容のことが、女性アナウンサーの声でナレーションされていたのです。

「え?反戦映画?」私は強い違和感を覚えました。

そうしたナレーションもそうだったのですが、マスコミなどで、映画『火垂るの墓』が「日本の反戦映画の名作」だとされているように感じてなりません。

しかし、私はそうは思ってはおりません。

たしかに、物語の中で、あの兄妹が両親を喪うことになった原因は戦争でした。

では節子ちゃんが命を落とさなければならなかったのは、同じように戦争が原因でしょうか?

清太君が命を落としたのは戦争が原因だったのでしょうか?


節子ちゃんの直接の死因は「栄養失調」でしたよね。

映画を観終わったあとで「節子ちゃんが助かる方法はなかったのだろうか?」
ついそんなことを考えてしまいました。


制作にあたったのは「スタジオジブリ」ですね。

「スタジオジブリ」と言えば、日本を代表するアニメ制作会社ですよね。

新しい作品がロードショーされると、まるで、こぞって神社に詣でるかのように、家族連れで出かけて、その作品を観るような感じさえ受けてしまうほどです。(あくまで私の私見ですのでご容赦下さいませ)

『スタジオジブリ』とは、それほどまでに、多くの人々の強い支持を受け、名実ともに信頼されているアニメ製作会社だと感じます。

老婆心かもしれませんが、私には映画『火垂るの墓』がそういった『スタジオジブリ』によって製作されたことがとても気がかりなんです。

私としては『スタジオジブリ』はあくまで、映画『火垂るの墓』の製作の依頼を受けただけであって欲しい。
アニメ製作会社として映画『火垂るの墓』を制作したのだと受け止めたい気持です。

と申しますのは、映画『火垂るの墓』の映画の冒頭に『スタジオジブリ作品』と出ることで、その映画であり物語の説得力がかなり強いものになると感じるからです。

私は『スタジオジブリ』はブランドネームだけではなくて、実際に、その映画の出来映えは実に見事なものだと感服しております。
他のジブリ作品の数々もそうですし、映画『火垂の墓』に関してもそのように感じております。

そういった、アニメの技術の高さや、演出の見事さなどで、物語の内容とは別の、強い説得力を感じてしまうことが、多少なりともあるように感じたのです。

まったく、私の私見ですが、映画『火垂るの墓』の内容は、実に個人的な「懺悔」のように感じました。

清太君と節子ちゃんの生まれ育った家庭は、かなり裕福に描かれていますよね。
またお父様は『海軍の偉い軍人さん』とのことでした。

もしも『戦争の悲惨さ』が主題であり、それを描くのであれば、一般的な兄妹に焦点をあててもよかったのでは?と感じました。

その結果として、清太君のとった行動はかなり偏ったものになってしまったのかもしれないな、と感じたからです。

特に、節子ちゃんの様態が悪くなってからの清太君の行動は理解に苦しむものがありました。

途中、清太君が食料を分けてもらいに行って、断られたおじさんに親切な忠告を受けますよね。

「悪いことは言わない。どれだけ頭を下げようとも、君達はおばさんの家に戻って、そこで世話になった方がいい」

私もまったくそう感じましたし、そうして欲しかった。
何故そうしなかったのでしょう?
それが清太君だったのですから仕方がないわけですけど・・・。
物語の設定がそうなんですもんね。

でも、同時に清太君は可愛らしい妹である、節子ちゃんを、ほんとうに大切にし、愛しているように描かれていたし、そう感じました。

清太君は、その節子ちゃんの為になら、どんなことでもしましたよね。
畑泥棒をしたり、火事場泥棒さえした清太君です。

しかし、清太君は節子ちゃんの命が危険だと感じた筈なのに、おばさんの家に頭を下げて戻ることをしなかった。
節子ちゃんの為ならば、どんなことでもできた清太君がいったいどうして?

プライドでしょうか?
でも、畑泥棒や、火事場泥棒をして、プライドなんて言えるのかな?

そんなことをしているうちに、見る見る、節子ちゃんの病状は悪化してゆき、ついに「かけがえのない大切な節子ちゃん」は死に至りました。

「反抗期」の年齢もぶつかったのが災いしたのかもしれませんが、
そんな清太君をひどく意固地だと感じましたし、理解に苦しみました。

清太君は節子ちゃんを医者に診せました。
診察した医者が
「ひどい栄養失調だ。とにかく滋養をつけさせなさい」
とアドバイスした時に
「滋養なんてどこにあるんだっ!」と医者に怒りを顕わにしました。

でも、おばさんの家に戻れば、見殺しにされるようなことはなかったでしょう。
清太君は、一番痛いところを突かれて、その逆鱗に触れたのかもしれませんね。
清太君にも強い葛藤があったのかもしれませんね。

「節子ちゃんは絶対に助けたい。でも、いまさらおばさんの家に頭を下げて戻ることも絶対にしたくはない」

節子ちゃんが、ずいぶんと美化されていることを感じました。
まるで幼い女の子の理想像のようにさえ感じました。

私は個人的に、そうした、節子ちゃんの理想的なキャラクターに、節子ちゃんを殺してしまった人物の気持が入っているような気がしてなりません。

自分の責任で殺してしまった、かけがえのない妹のことを、記憶の中で何度も何度も反芻(はんすう)するうちに「どんどん美化してしまったのではないかな?」と感じました。

現実的には、物語の中で死んでしまった清太君の立場の人物(野坂昭如氏ですね)が生き残って『火垂るの墓』の原作を執筆されたのでしょう。(この三年の間に、原作も読みましたが、まったく違った内容でした)

その罪の意識ははかりしれません。
ほんとうに苦しまれたことでしょう。(野坂昭如氏は懺悔の意味を込めて『火垂るの墓』を執筆したと述懐なさっておられます)

苦しみ、のたうち回りながら生きる日々になったと思うのです。

私は、映画『火垂るの墓』に関して、そういった、ごく個人的な「罪の苦しみ」や「哀しみ」を「戦争の惨劇」と混同するようなことがあるかもしれないと危惧します。

でも私自身、節子ちゃんの哀し過ぎる死と「戦争」を、どこか混同して観ておりました。
映画『火垂るの墓』は、そのように描かれているように感じますし、素直に観ていてそう感じました。

また、戦争のシーンにはB29の機影が盛んに移ります。
アメリカ軍です。
でも戦争は一国ではできませんよね。
『太平洋戦争』は「大日本帝国」の「大本営」が「天皇陛下」の名の下に起こした戦争ですよね。

その「大日本帝国」の戦闘シーンが全く出てこないことにも、強い違和感を感じました。

まるで一方的にアメリカ軍が悪者であるかのように感じてしまった。

「節子ちゃんを殺したのは、アメリカ軍だ」と感じてしまうほどでした。
あるいは「戦争に巻き込まれた悲劇だ」と誤解してしまいそうでした。

また、率直なところ、映画製作者の意図として、節子ちゃんが「理想的なまでに可愛く、物わかりの良い子」であった方が「戦争の悲惨さ」を強調する為には都合がよかったと感じるのです。

その方が、節子ちゃんの死の「悲劇性」が強くなりますもんね。

そういった子が現実に居たかもしれません。
そして、そういった子達が戦争で亡くなったかもしれません。

しかし、私個人としては、映画『火垂るの墓』という物語に関して「戦争が節子ちゃんの命を奪った」とは、どうしても思えないのです。

もっと言わせていただければ、もしも日本とアメリカの形勢が逆であったなら、そして清太君が軍人であれば、清太君はアメリカ軍と同じことをしたかもしれませんよね?

蛍の明かりの蚊帳(かや)の中で、清太君が、お父さんの勇姿を思い出していました。
夜の港に日本の軍艦が集結していました。
清太君のお父様らしき人物は、実に凛々しく敬礼をしていました。

清太君は飛び起きて、銃を持った格好をして「バババババババ」と撃つ真似さえします。
軍艦マーチも歌います。

もちろん「戦争はヒドイことだ!」と訴えるのは歓迎です。
私もそういった信念はしっかりと持って行きたいと思っております。

ただ「戦争のヒドさ」を訴える為に、その手法であり、手段が何でもいいということはないと思います。

例えが適切だか、解りませんが、まるで東北の「ナマハゲ」のように、子を怯えさせる。
あるいは仏教の「地獄絵図」的なものになってしまうかもしれないと感じるからです。

とにかく「ヒドイものだ」と感じてもらう為に、なんでもいいから「ヒドイもの」を見せればいい、というものではないと思うのです。

悪い例えかもしれませんが「怪我は怖いぞ!」といったことを解らせる為に、事故でグチャグチャになった人の姿を見せるようなものだと思うのです。

とにかく、私はそんなふうに「話しがすり替わってしまいそう」でした。

『戦争の悲惨さ』と『幼い兄妹の本当に胸の痛む死に方の悲劇』がどこかですり替わってしまいそうだったんです。

手段を選ばない『反戦表現』が『戦争抑止』に繋がるとは思えません。
ちゃんと筋の通った「戦争の悲惨な物語」を観てこそ、初めて意義があると思うのです。

「戦争はいったいどうして起きるのか?」
そして「戦争はどんな風に平和な日常を突然破壊するのか?」
更に「戦争の傷跡」はどんな風に人の心に残るのか?社会に傷跡を残すのか?

そういったようなことが描かれてこそ「反戦映画」なのではないでしょうか?

そうしたことが表現されていなければ「戦争の抑止」には繋がらないと思います。

映画のラストで、節子ちゃんと清太君の魂が、高台の公園のベンチに座り、復興した現代のビル群を眺めている後ろ姿で終わりますよね。

いったいこのラストにはどんなメッセージが込められていたのでしょう?

時代の中で「戦争」という「おとな」や「狂った社会」の都合にないがしろにされ、犠牲になった痛ましい兄妹が居た。
しかし人々は「戦争という、ほんとうにひどいことがあったことをすっかり忘れてしまい、高度成長などとうつつを抜かしている」
そんな状態を、戦争の犠牲になった兄妹の魂が眺めている。
そういった「戒め」のシーンに感じました。

もし映画『火垂るの墓』が、しっかりと戦争について描かれていたなら、そのラストのシーンもしっくり来たかもしれません。

でも、私の観る限り、映画『火垂るの墓』で描かれていたのは、節子ちゃんという、理想的なまでに可愛らしい妹を「自分が殺してしまった!」という、清太君(作者:原作は野坂昭如氏で、事実上は高畑勲さんがお創りになられた物語ですね)の懺悔の物語だと感じました。

映画『火垂るの墓』が「ごく個人的な懺悔」であり「苦しみ」の表現であるとすれば、それは見事に表現されていると感じましたし、伝わってきました。

私は『火垂るの墓』の原作は読んでおりませんが、映画『火垂るの墓』に関してはそのように感じ、思いました。(先にも書きましたが、この三年の間に、原作も読みましたし、高畑勲さんの手記にもいくらか目を通しました)

まるで自分の心の深い傷跡をいじくり続けた人が居て、その人物の心の中で、どんどん「エスカレートしてしまったような物語」のように感じました。
ある意味、変質的なまでに。

私は決してそうではありませんが、そうした映画『火垂るの墓』が、世の中で「反戦映画の代表作」であり「名作」だと謳われるのは、いったいどういうわけなのでしょうか?
『火垂るの墓』は、必ずしも戦争と関係ないと感じます。
戦時下の『幼い兄妹の物語』だと思います。

映画を監督し、脚本を手がけた高畑勲氏の意図するところはいったいどこにあったのでしょうか?

『幼い兄妹の痛ましい死に様』を描くことで、反戦を謳っておられるのでしょうか?

「なんでもイイから戦争は悲惨だと感じて欲しい」

といったことならば、先ほど述べた通りです。

「個人的な罪悪感」の苦しみが「戦争の悲惨な傷跡」とすり替わって訴えられているように感じられたのはわたくしだけでしょうか?

率直に申し上げて私は映画『火垂るの墓』に対して違和感が強く、感情移入しずらいものがありました。(三年前の当時はそうでしたが、今は全く違う見方をしております)

映画の内容は、ひどく痛ましいのですが、高畑勲さんのメッセージはいったいどこにあるのかが、混乱してしまうんですよね。

もしも戦争を描くというのなら、例えば、清太君の、お母さんが冒頭で全身に火傷を負いますよね。
思えば、あんなに衛生的な包帯に巻かれて寝かされているなんてあり得ないと思うわけです。

おそらく、ああいった場合、どこかの道ばたに転がされたままで息絶えるというのが現実ではないでしょうか?

それ以前に、清太君がお母さんに会えるとは、まず考えられないのです。

物語で、そんな姿になってしまったお母さんと、清太君が辛い対面をしている時、近所のおばさんでしょうか?
ずっと砂場で節子ちゃんをあやしていました。
そんなゆとりや時間があったのでしょうか?

もしも戦争を描くというのであれば、他にも描かれていることに無理や、素直に附に落とせない事が多いと感じました。

戦時下の描写に、あまりにもリアリティーが無い。
(これらは太平洋戦争の「空襲体験者」と一緒に観た感想です)

まるで戦争の悲惨さを、清太君の凄惨なお母さんの死であり、その死別の苦しみや、清太君にとって、あまりにも残酷な節子ちゃんの死で、表現してしまっているようにさえ感じれられたました。

またそうした物語を「映画の技術的な完成度の高さ」で、強引に押してしまうというのであれば、私はあの映画の放映はやめて欲しいとさえ思います。(これは言い過ぎだと感じます。反省の意味を込めてこのまま残します)

野坂昭如氏をして「アニメ恐るべし」と言わせしめたのは、そういった矛盾の数々を、アニメの圧倒的な説得力で、活字ではとても得られなかった多くの人々の感動を呼んでしまう力。
それに対しておっしゃった言葉ではなかったのでは?と思うのです。(これに関しても、野坂昭如氏の原作を読んだ今ではまったく違った感想を持っております)

実に個人的でほとんど人の目にとまることのなかった短編小説『火垂るの墓』が、日本の代表作とさえ言われる映画になってしまう!

まさに「アニメ恐るべし」だと思います。

私は、映画『火垂るの墓』に対してのマスコミの「日本の反戦映画の名作」と言ったようなうかつな表現や批評であり扱い方は実に無責任だし如何なものかと感じます。

ともすれば『戦争』ということを、をはき違えてしまいかねないと懸念するからです。
映画『火垂るの墓』はあくまで、幼い兄妹の物語であって、戦争を描こうとなさった作品ではないと感じるのです。

なぜ、原作に野坂昭如氏の『火垂るの墓』を選んだのかは、私が原作を読んでみなければなりません。(原作を読みましたが、呆れるほどに映画『火垂るの墓』とは違ったものでした)

映画『火垂るの墓』関して、見方を間違えたり、マスコミの扱い方次第では、問題を含んだ作品になりかねないと感じた次第です。

私個人は、映画『火垂るの墓』を反戦映画とは、とらえておりません。
例えば、反戦映画なら「シベールの日曜日」がとても好きです。

実にしっかりとしたテーマが描かれ貫かれています。

もしも映画『火垂るの墓』が日本を代表する反戦映画の傑作だ、と扱われてしまい、そういった形で世界に誇られるようなことがあれば、ある意味、恥ずかしいことでさえあると感じます。

もしも、そういった風潮があるのならば、戦後60年経ってまだ日本人は「第二次世界大戦」が、いったい、どういった戦争だったのかを理解していないとも言えるかもしれない、とさえ感じます。

率直に申し上げて、解っておられる方は少ないかもしれませんよね。

解ると言っても、知識でしか解ることはできませんが・・・。

そういった背景もあって、映画『火垂るの墓』が日本でこんなにも珍重され、毎年『終戦記念日』が近づくと放映されるようなことになるのではないかな?と思えるのです。

■三年前に書いた「映画『火垂るの墓』しっかりと観ました」に沢山のコメントを頂戴しております。
また、アクセス数も日々、沢山頂戴しております。

三年間の間に、私も映画『火垂るの墓』についてかなり考えましたし、その感想も大きく変わりました。

そうした古い記事にコメントを頂戴しても、今現在、感想が大きく変わってしまっています。
ですから、そうしたコメントを読むことも辛かったですし、お返事を書くこともとても辛かったです。

記事の削除さえ考えました。
でも、過去の自分があっての現在の私です。
そうした意味で過去の記事は
「映画『火垂るの墓』しっかりと観ました<旧>」
として残して、こうして、新しく訂正、加筆した次第です。

この記事に関しては、三年前に書いた記事の主旨をそのままに残すように留意したつもりです。(2009年8月17日)

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posted by ボチ at 23:48| Comment(2) | 独り言 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
「火垂るの墓」前に一度、テレビでやっていたのを見たことがあります。家事をしながら、所々抜かしながらのうろ覚えですが....。先日ダンナから、「ホタルの墓の女の子の名前なんだっけ?」と聞かれて
「よし子じゃないし、とし子でもないし、和子?」
「あっ、思い出した。かつ子だ!」

そんなですので、あまりコメントできませんが...
 うちのタケばあちゃん(現在93歳元気です)が、アニメ見ながら「かわいそうだかわいそうだ」と言って泣いていたのを思い出します。

いつだったけか、松嶋奈々子主演のドラマ「火垂るの墓」をテレビでやっていたのを見たことがあります。そっちもウロ覚えですが....。
(奈々子が意地悪叔母さんをやるのかぁ)と思って見ましたが、見終わって(叔母さんもつらかったのね〜)と思いました。最初やさしかった奈々子(扮する叔母さん)が、段々鬼婆に変化していく姿がちょっと怖かったです。

このドラマは、叔母さんの視点で描かれているのでもし良かったらDVDをご覧くださいマセ。アニメとはまた違う印象を持つかもしれません。
Posted by みなせりみ at 2009年08月19日 04:34
みなせりみさんへ
93歳でお達者なんですネ!
スゴイo(^-^)o

そうなんです。
とにかく節子ちゃんが可哀想で。
清太君も堪えることが多過ぎるのに、節子ちゃんにとても優しかった。

松嶋菜々子さんが叔母さんの役を!!
ぜんぜん知りませんでした。
叔母さんの視点かあ。
なるほどですよね。
また機会があれば。
Posted by ボチ at 2009年08月19日 05:05
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